LOGIN六月五日の朝、神崎冬真が会社へ着くと、事務所の空気は昨日までとは少し違っていた。
別に誰かが青ざめているわけではないし、電話が鳴りっぱなしになっているわけでもない。いつも通りコーヒーを飲んでいる社員がいて、朝から営業成績について上司に小言を言われている若手もいる。コピー機の前では紙詰まりに苛立っている社員がおり、給湯室からは誰かが電子レンジで温めている弁当の匂いが漂っていた。
それでも、冬真には妙な違和感があった。
原因は大型モニターだった。
普段なら社内連絡や営業数字が映っている画面に、今日は海外ニュースが表示されていた。
アメリカ中西部。
フランス。
ドイツ。
カナダ。
中国東北部。
地図の上に、低温被害が確認された地域を示す青い印がいくつも並んでいる。
「何ですか、これ」
鞄を机に置きながら冬真が尋ねると、隣の席にいた柴田が椅子を回した。
「海外事業部から回ってきた資料ですよ。うちの顧客だけでも、農産物関係の倉庫が何か所も止まってるみたいです」
「設備が?」
「いや、それが設備じゃないんですよ。入れる物が来ないんです」
柴田は苦笑いした。
「倉庫は元気なんです。機械も動くし、電気も来てる。でも農場から荷物が来ない。だから稼働率を落としたいって話ばっかりで」
「どのくらい被害が出てるんだ」
「まだ分かんないみたいです。現地も把握できてないらしくて。ただ、アメリカの担当者が言うには、霜で苗がやられた地域がかなり広いとか」
冬真はモニターを見上げた。
アメリカは世界でも有数の農業国だ。
日本に住んでいると、大都市や軍事、IT企業の印象の方が強いが、中西部には地平線まで続く農地がある。トウモロコシ、大豆、小麦。人間が直接食べるものだけではなく、家畜の飼料や加工食品の原料にもなる。
「植え直せばいいんじゃないのか」
冬真が言うと、柴田は肩をすくめた。
「俺もそう思ったんですけど、植え直してもまた寒波が来たら同じらしいですよ。それに種も無限にあるわけじゃないし、時期が遅れれば収穫できる前に冬が来るとか」
「それ誰から聞いた」
「アメリカ担当の伊藤さんです。向こうの取引先に聞いたらしいです」
冬真は自分の椅子へ座った。
少しして佐倉が出勤してくる。
「おはようございまーす。寒いですねえ、本当にもう嫌になる」
そう言いながら厚手のコートを脱ぎ、モニターを見て眉を寄せた。
「また農業のニュースですか?」
「佐倉さん、昨日トマト買いました?」
柴田が尋ねる。
「買いませんよ。高すぎます。あんなの一個ずつ金庫に入れて売った方がいいんじゃないですか」
「今日もっと上がるらしいですよ」
「やめてくださいよ。私、サラダ食べたいんですけど」
「肉食えばいいじゃないですか」
「昨日からずっとそれ言ってますね。柴田さん、私を太らせることに何か使命感でもあるんですか?」
「いや、佐倉さんがダイエットしてるって言うから」
「ダイエットしてる人に肉を勧めるなって話です」
二人のやり取りに、周囲から笑い声が上がった。
冬真も笑った。
まだ笑える。
それが妙にありがたかった。
午前九時。
朝礼が始まった。
高木課長が前へ立ち、いつもなら売上目標や事故防止について話すところを、今日は一枚の資料を持っていた。
「今日は少し特殊な話をする。まず、うちの海外案件だが、低温の影響で物流センターの稼働変更が相次いでいる。現時点では設備保守契約そのものに大きな変更はない。ただし、農産物関連については予定していた入荷量が確保できず、稼働縮小の相談が来ている」
誰かが質問した。
「一時的なものですよね」
「現時点ではそういう扱いだ」
高木は即答した。
しかし、その答え方が少し硬かった。
「気象に関しては我々の専門外だし、必要以上に騒ぐつもりもない。ただ顧客から緊急対応の依頼が増えている。特に冷凍倉庫、食品工場、農産物集荷施設については予定変更が多い。営業と保全部門は情報共有を徹底してくれ」
別の社員が手を挙げた。
「課長、海外出張はどうなるんですか」
「今のところ変更なし。ただ、航空便が寒波で欠航している地域がある。行く予定のある者は直前まで確認してくれ」
柴田が小声で冬真に言った。
「六月に寒波で飛行機飛ばないって、すごい話ですよね」
「黙って聞け」
「神崎さんも気になってるくせに」
「気にはなるよ」
高木がこちらを見たので、二人とも黙った。
朝礼が終わると、それぞれ仕事へ戻った。
冬真は午前中、国内の食品工場から届いた設備点検報告を確認していた。
冷却設備そのものは、むしろ負荷が減っている。
気温が低いのだから当然だった。
一方で結露防止や凍結防止の相談が増えている。
「真夏に凍結防止か……」
独り言が漏れた。
カレンダーを見る。
六月。
何度見ても六月だった。
午前十一時過ぎ、社内チャットに海外事業部から通知が流れた。
フランス北部の農業関連取引先が、今年度の設備投資計画を凍結するという。
理由は作物被害。
続いてドイツ。
小麦関連施設の増設計画延期。
中国東北部。
農産物加工工場の稼働率低下。
カナダ。
穀物倉庫への搬入予定変更。
一件ずつなら珍しくない。
不作の年もある。
天候不順もある。
災害で工場が止まることだってある。
だが、それが世界中から同時に来る。
そこが気持ち悪かった。
昼休みになると、冬真たちは社員食堂へ向かった。
今日の定食は鶏の照り焼き。
付け合わせのキャベツは昨日より明らかに少なかった。
柴田がすぐに気づく。
「あれ、キャベツ減ってないですか?」
配膳担当の女性が苦笑した。
「気づいた? 仕入れ値が上がっちゃってね。今週だけ少し減らしてるの」
「社員食堂にも来ましたか」
「野菜だけじゃなくて卵も上がってるよ。来週からメニュー変えるかもしれないって」
「世知辛いなあ」
柴田はトレーを持って席へ向かった。
佐倉がキャベツを箸でつまみながら言う。
「これ、昨日の半分くらいじゃないですか。会社が私のダイエットを邪魔してくる」
「むしろ食べる量減るんだから協力してくれてるでしょう」
「だから柴田さん、そういうこと言うから彼女できないんですよ」
「何でキャベツから俺の恋愛事情に飛ぶんですか」
「人間性ですよ、人間性」
冬真は吹き出した。
「お前ら、本当に平和だな」
「平和ですよ。日本なんですから」
柴田はそう言って味噌汁をすすった。
「ニュースは大げさなんですよ。何年か前も米不足になるとか言って結局普通に買えたし、毎年毎年、異常気象とか百年に一度とか言ってるじゃないですか」
「今年は世界中だけどな」
「それもニュースが世界中から悪い映像集めてるからでしょ。アメリカ全部が雪に埋もれてるわけじゃないし、中国全部が凍ってるわけでもない。フランスだって南の方は大丈夫なんじゃないですか」
「まあ、それはそうだろうな」
冬真も頷いた。
柴田の言うことにも筋は通っている。
報道は目立つ映像を選ぶ。
平穏な地域より、雪に埋もれた農場の方がニュースになる。
世界地図の青い印ばかり見ていると、地球全体が凍っているように錯覚する。
佐倉がスマートフォンを見ながら言った。
「でもフランス、ワイン用のブドウがかなりやられたって書いてありますよ」
「ワイン飲まないから俺は困らないです」
「そういう話じゃないでしょう」
「じゃあ何の話です?」
「世界的に農業が大変だって話です」
「俺たちが心配したところで気温上がらないですしねえ」
柴田は悪びれずに答えた。
「それに、今年だけでしょ。来年も同じならさすがに怖いですけど、一年くらいなら備蓄とか輸入とかで何とかなるんじゃないですか」
「今年だけ、か」
冬真は呟いた。
「神崎さんは違うと思います?」
「いや、分からない」
「でしょ?」
柴田は少し得意そうな顔をした。
「専門家でも分からないんだから、俺たちが考えても仕方ないですよ。来週暖かくなるって予報なんだし、今のうちに寒い夏を楽しみましょうよ」
「寒い夏の何を楽しむんだよ」
「ビールがぬるくならない」
「室内で飲め」
三人で笑った。
けれど冬真は、心のどこかに引っかかったままだった。
午後、母親から写真が送られてきた。
畑だった。
昨日話していたトマトの苗。
葉の端が黒く変色し、茎がぐったりしている。
その隣にあるナスも同じだった。
写真の下に短い文章がついている。
『朝また霜が降りた。昨日より悪くなったよ』
冬真はすぐ電話した。
「母さん、写真見た」
『仕事中じゃないの?』
「休憩中だから」
『ならいいけど。ひどいでしょう』
「全部こんな感じ?」
『トマトとナスはほぼ駄目かもしれないね。キュウリも怪しい。ジャガイモはまだ葉が残ってるけど、こんな寒さが続いたらどうなるか分からないよ』
「ビニール被せたんだろ」
『被せたよ。でもね、冬真。ビニールを被せたからって夏になるわけじゃないんだよ』
母親の声は落ち着いていた。
だから余計に気になった。
「何かできることある?」
『日曜に来てくれるなら、ホームセンターで少し資材を見たいね。簡単な囲いくらい作れるかもしれないし』
「分かった。車出すよ」
『陽菜も来るって言ってたよ』
「昨日聞いた」
『久しぶりに三人揃うね』
「何だよ、その最後の晩餐みたいな言い方」
冬真が冗談を言うと、母親は笑った。
『縁起でもない。うちはまだ食べる物あるよ』
「そうだよな」
『ただね』
母親の声が少し低くなった。
「何?」
『近所の斉藤さん、農家なの覚えてる?』
「畑の向こうの家だろ」
『そう。あそこ、今年は出荷できないかもしれないって』
「何作ってたっけ」
『レタスとキャベツ。それに少しブロッコリー。昨日見せてもらったけど、葉っぱがずいぶん傷んでたよ』
「保険とかあるんじゃないのか」
『あるだろうけど、お金をもらえば野菜が生えてくるわけじゃないからね』
冬真は黙った。
当たり前の話だった。
農家が損害を補償されても、失われた作物が市場へ戻るわけではない。
『斉藤さん、笑ってたけどね。「こんな年もある」って』
「農家は強いな」
『でも帰り際に、今年だけならいいけどなって言ってたよ』
その言葉に、冬真は顔を上げた。
「今年だけなら?」
『そう。農家の人って、天気に敏感だからね。私たちよりずっと空を見てる』
「何か気になること言ってた?」
『詳しいことは言ってなかったよ。ただ、春から変だったって。暖かくなったと思ったら急に冷えて、雨の降り方もおかしいって』
少しして母親は明るい声に戻った。
『まあ、日曜に見れば分かるよ。仕事戻りなさい』
「ああ。無理するなよ」
『あんたに言われなくても分かってる』
「それならいいけど」
『陽菜には優しくしなさいよ』
「何で急にそこへ戻るんだよ」
『あんたたち二人で会うと、すぐくだらないことで喧嘩するから』
「子供じゃないんだから」
『親から見れば何歳でも似たようなもんだよ』
電話が切れた。
冬真は写真をもう一度見た。
黒く傷んだトマトの葉。
昨日までは、スーパーの値上がりも遠い出来事のように感じていた。
だが母親の畑まで同じことが起きている。
午後四時過ぎ、海外事業部の伊藤が冬真の席へ来た。
「神崎さん、少しいいですか」
「何です?」
「例のアメリカの倉庫なんですけど、ヒーター増設の件、いったん止まりました」
「計画中止?」
「倉庫そのものを止めるかもしれないそうです」
冬真は椅子から少し身を起こした。
「そんなに荷物来ないんですか」
「先方が言うには、契約農場のかなりの割合が被害を受けてるらしくて。今季の収穫量が読めないそうです」
「でも、六月ですよね。まだやり直せるんじゃ」
「俺も聞きました。植え直しできる場所はやるみたいです。でも問題は気温なんですよ」
「まだ下がる?」
「予報だと、来週また寒気が入る可能性があるって」
伊藤は疲れたような顔をしていた。
「正直、向こうも混乱してます。農家は植え直すか、このまま様子を見るか決められない。植え直してまた霜が来たら種も人件費も無駄になる。かといって待ってたら収穫時期が遅れる」
「厄介ですね」
「厄介どころじゃないですよ。あの辺りは世界中に穀物出してるんですから」
冬真は黙った。
伊藤も自分で言ってから、少し言い過ぎたと思ったのか苦笑した。
「まあ、今年だけなら何とかなるでしょうけどね」
また、その言葉だった。
「今年だけなら」
「え?」
「いや、昨日からそればっかり聞くなと思って」
「みんな考えること同じなんでしょう」
伊藤は笑った。
「俺だってそう思いたいですよ。来年も同じだったら仕事どころじゃないですから」
「確かに」
「でも、さすがに二年も三年もこんなことにはならないでしょう」
「どうでしょうね」
「神崎さん、怖いこと言わないでくださいよ」
伊藤は笑いながら去っていった。
午後六時を過ぎても外は明るかった。
日の長さだけなら確かに六月だった。
会社を出ると、冷たい空気が頬に当たった。
気温は八度。
駅前の大型ビジョンでは、ニュース番組が世界の農業被害を伝えていた。
『フランスでは昨夜から今朝にかけて広い範囲で気温が氷点下まで下がり、ブドウ畑や果樹園に深刻な被害が出ています』
画面には農家が映っていた。
白く霜の降りた畑に立ち、手で葉を触っている。
『ドイツでも小麦、大麦などへの影響が懸念されています』
次は中国。
『中国東北部では寒気の影響により、一部地域で農作物への被害が拡大しています。当局は農家に保温対策を呼びかけています』
そしてアメリカ。
『米国農務関係者は、中西部の農作物被害について現在調査中としていますが、市場ではトウモロコシと大豆の先物価格が急上昇しています』
通行人たちは足を止めない。
誰もが画面をちらりと見るだけだった。
仕事帰り。
夕食。
飲み会。
家族。
明日の予定。
人生には気にすることが多すぎる。
地球の裏側にある畑の心配までしていられない。
冬真も同じだった。
駅構内に入り、コンビニへ寄った。
レジ横に並ぶおにぎりはいつも通りだった。
弁当もある。
パンもある。
飲み物もある。
何もなくなっていない。
「やっぱり考えすぎか」
冬真は鮭のおにぎりを一つ手に取った。
レジへ持っていくと、店員がバーコードを読み取る。
「百九十八円になります」
「え?」
冬真は値札を見直した。
「これ、昨日百六十八円じゃなかった?」
店員は申し訳なさそうに笑った。
「今日から一部商品が値上げになったんです」
「もう?」
「原材料と物流費の関係らしいです。僕も詳しくは分からないんですけど」
「そうなんだ」
たかが三十円。
気にする金額ではない。
冬真は支払いを済ませた。
駅のホームで電車を待ちながら、おにぎりの包装を見る。
米。
鮭。
海苔。
塩。
それぞれが別の場所で作られ、運ばれ、加工され、ここまで届いている。
そのどこか一つでも止まれば、この小さなおにぎりは店頭に並ばない。
今まで考えたこともなかった。
電車に乗る。
向かいの席では高校生二人が動画を見て笑っている。
隣では会社員が居眠りしている。
車内広告には、夏の旅行キャンペーンが出ていた。
『今年の夏は南の島へ』
青い海。
強い日差し。
水着姿で笑う家族。
今の東京とは別世界のようだった。
冬真は広告を見上げながら思った。
今年だけだ。
たぶん。
異常な年が一度くらいあってもおかしくない。
来年は暑い夏が来る。
ニュースでは猛暑に注意してくださいと言う。
スーパーには安い野菜が戻る。
母親は畑でトマトを作り、陽菜は暑い暑いと文句を言う。
そうなる。
そうなるはずだった。
帰宅してテレビをつける。
専門家が解説している。
『現段階で、この低温傾向が長期化すると判断する材料は十分ではありません。気象現象には大きな変動がありますので、一つの異常だけを取り上げて長期的な傾向と結びつけるのは慎重であるべきです』
冬真は少し安心した。
専門家が言っている。
まだ長期化すると決まったわけではない。
続いて司会者が尋ねた。
『では、今回の寒さについて必要以上に不安になることはない、と考えてよろしいでしょうか』
専門家は一瞬黙った。
ほんのわずかな間だった。
『現時点では、冷静に推移を見る必要があります』
安心していい、とは言わなかった。
冬真はリモコンを置いた。
「何だよ、それ」
苦笑した。
安心させるのか、不安にさせるのか分からない。
窓の外を見た。
細かな雨が降っている。
気象アプリでは深夜の予想気温が三度になっていた。
六月五日。
まだ、日本のスーパーには食べ物がある。
電車は動いている。
会社も営業している。
人々は普通に働き、普通に恋をし、普通に家族と喧嘩をしている。
だからこそ、冬真も信じたかった。
「今年だけだろ」
誰もいない部屋で口にした。
声にすると、本当にそうなるような気がした。
その夜、世界の商品市場では小麦、トウモロコシ、大豆の価格が急激に上昇していた。
そして複数の穀物輸出国では、自国民向けの食料を確保するため、輸出制限の検討が始まっていた。
冬真がそれを知るのは翌朝だった。
スーパーの棚から米が消え始めるより、ほんの少しだけ前のことだった。
第13話 三か月後、食べ物がなくなる 七月五日の朝、神崎冬真は電車の中で、一枚の給食写真を見ていた。 SNSで急速に拡散されている、小学校の給食を撮影した写真だった。 白いご飯が小さな茶碗に半分ほど。 具の少ない味噌汁。 煮豆。 漬物。 それだけだった。 投稿者の説明によれば、以前は魚や肉のおかず、牛乳、デザートまでついていたという。食材調達が難しくなったため、一時的に献立を変更したらしい。 写真の真偽を冬真が確認できるわけではない。 だが、似たような報告は一件ではなかった。 別の学校では牛乳が週二回に減った。 別の自治体ではパン給食を中止し、備蓄米を使用した米飯へ切り替えた。 肉類の使用回数を減らした自治体もある。 卵を使用する献立が消えたという書き込みもあった。「子供から先に減らすわけじゃないんだろうけどな……」 冬真はスマートフォンを閉じた。 自治体だって、好きで給食を減らしているわけではない。 決められた予算がある。 その中で食材価格だけが二倍、三倍になれば、今までと同じ献立を維持できるはずがない。 それでも、子供の皿が小さくなる写真は、大人向けの商品が値上がりするニュースよりずっと胸に刺さった。 向かいの席には、小学生くらいの男の子と母親が座っていた。「今日も給食、少ないかな」 男の子が言う。 母親はスマートフォンを見ながら答えた。「どうだろうね。でも朝ちゃんと食べたでしょう」「お昼までお腹すくよ」「帰ってきたら何か作るから」「唐揚げがいい」
第12話 肉が高級品になった日 七月四日の朝、神崎冬真は冷蔵庫を開けたまま、しばらく豚肉のパックを見つめていた。 昨日買ったばかりの切り落とし肉だった。特売でも高級品でもない、ごく普通の国産豚肉である。それなのに値札には、以前なら少し良い焼き肉用の肉でも買えそうな金額が印字されていた。「百グラム三百八十九円……」 記憶違いでなければ、数週間前までは二百円前後だったはずだ。 牛肉なら分からなくもない。 だが豚肉までこの値段なのか。 冷蔵庫の奥にある卵にも目を向ける。 十個入りで八百円近くした。高すぎると思いながらも、最後の一パックだったので買ってしまったものだ。 牛乳も一本三百円を超えている。 食パンも高い。 冷凍食品も高い。 今までは野菜だけだった。 その次に米。 そして小麦粉。 気づけば、食卓のほとんど全てが値上がりしている。 冬真は豚肉を冷蔵庫へ戻した。「朝から肉食うの、もったいないな」 口に出した瞬間、自分で嫌になった。 以前なら、肉を一食分使うのに「もったいない」などと考えなかった。 食べるために買ったものなのだから、食べればいい。 それが当たり前だった。 だが今は、その一パックを今日使ってしまったら、次に同じ値段で買えるか分からない。 もっと高くなるかもしれない。 そもそも売っていないかもしれない。 そう考えてしまう。 結局、朝食は米と味噌汁、梅干しだけにした。 母親から持たされた梅干しを一つ箸で割りながら、冬真はテレビをつけた。 朝のニュースでは、畜産
第11話 備蓄米が来た日 七月三日の朝、神崎冬真が目を覚まして最初に確認したのは天気ではなく、政府の備蓄米放出に関するニュースだった。 数日前までなら、起床後に見るものといえば時刻と電車の運行情報くらいだった。ところが今では気温、降雪、道路状況、食料価格、燃料供給、穀物輸出規制まで確認してからでなければ、一日を始める気になれない。 習慣というものは恐ろしい。 世界が変われば、人間の「普通」も驚くほど早く変わる。 テレビでは朝六時台から、政府備蓄米を積んだ大型トラックが倉庫から出発する映像を繰り返し流していた。『政府は本日より、第一弾としておよそ二十万トンの備蓄米を市場へ放出します。大手卸売業者を通じ、順次全国の小売店へ供給される予定です』 画面の中では、巨大な倉庫からパレット単位で積み出される米袋が映っている。 冬真はコーヒーを飲みながら、その光景を見ていた。「二十万トンって、多いのか少ないのか分からないな」 数字が大きすぎる。 一人暮らしの人間にとって米五キロなら感覚で分かる。 十キロなら一か月以上持つ。 だが二十万トンと言われても、それが日本全体で何日分なのか、冬真には実感できなかった。 番組には食料経済の専門家が出演していた。『今回の放出量だけを見れば、直ちに米が尽きるような状況ではありません。むしろ重要なのは流通です。備蓄米は国が保管しているだけでは消費者の食卓に届きません。精米、袋詰め、輸送、小売店への配送という工程が必要です』 司会者が質問する。『つまり、備蓄が十分あってもスーパーでは品切れが続く場合がある?』『当然あります。現在は道路状況の悪化や燃料問題によって物流能力そのものが低下しています。食料の量だけではなく、それを動かす能力も考えなくてはいけません』 冬真はコーヒーカップを置いた。
第10話 政府緊急会見 七月二日の朝、東京の雪はまだ完全には消えていなかった。 大通りでは除雪車が走り、駅前には踏み固められた雪が黒く汚れて残っている。道路の中央こそ車が通れる程度には回復していたが、歩道には凍結した箇所が多く、転倒して救急搬送される人が相次いでいると朝のニュースが伝えていた。 神崎冬真は窓辺に立ち、昨夜より少し薄くなった雪景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。 テレビでは、午前九時から政府が緊急記者会見を開くと繰り返し告知している。『政府は昨日から関係省庁による対策会議を続けており、食料供給、電力、燃料、交通網、農業被害などについて総合的な対応方針を発表する予定です』 冬真はカップを置いた。 午前九時。 いつもなら会社にいる時間だ。 だが今日は、高木課長から「午前中は自宅待機」と連絡が来ていた。鉄道は一部復旧したものの、運行本数が少なく、会社側も現場対応要員以外の出勤を抑えている。 昨日まで「通常勤務」を維持しようとしていた会社が、一日で方針を変えた。 それだけでも事態の深刻さが伝わってきた。 スマートフォンが震える。 柴田から社内チャットだった。『神崎さん、生きてます?』『生きてる』『うち子供大喜びです。庭で雪だるま作ってます』『元気だな』『嫁は泣きそうな顔してますけどね』 冬真は少し眉をひそめた。『何かあった?』『スーパー昨日から閉まってるんですよ。道路凍って配送来てないみたいで』『食料あるのか』『今のところは。親父が送ってきた米十五キロが神に見えます』『大事に食え』『そうします』 少しして、柴田からもう一通来た。
第9話 東京、七月、雪 六月十二日の朝、神崎冬真はカーテンを開けたまま、しばらく窓の前から動けなかった。 昨夜の天気予報では、早朝に霙が混じる可能性があるとは言っていた。 それでも積もるとは聞いていない。 向かいのマンションの屋根が白い。 歩道の植え込みにも薄く雪が乗り、道路脇に停められている車の屋根は、まるで冬の朝のように白くなっていた。 さすがに路面までは積もっていない。アスファルトに落ちた雪は水に変わり、排水溝へ流れている。 それでも六月十二日だった。 冬真はスマートフォンを手に取り、外を一枚撮った。 撮ってから、自分が何のために写真を残したのか分からなくなった。「陽菜にでも送るか」 メッセージアプリを開くより先に、陽菜から写真が送られてきた。『こっちも白い。笑えないんだけど』 冬真は自分の写真も送った。『同じだ』 すぐ電話がかかってくる。『お兄ちゃん、今日会社行く?』「行くよ」『普通に?』「電車動いてるからな」『テレビ、不要不急の外出控えろって言ってるよ』「それ、大雪の地域だろ。東京はこの程度なら問題ない」『この程度って、六月に雪積もってるんだけど』「季節の話と交通の話は別だろ」『会社員って怖いね』「お前は?」『うち、午前中在宅になった。午後は状況見て判断だって』「いい会社じゃないか」『こういう時だけね。普段は編集修正、夜中でも飛んでくるけど』「在宅でも仕事は仕事だろ」『そういう正論、朝からいらない』 冬真は少し
第8話 ガソリン 翌朝、神崎冬真が自宅を出た時、最初に感じたのは寒さではなかった。 道路が詰まっている。 普段なら住宅街の細い道を抜け、駅前へ向かう車が途切れなく流れている時間だが、その日は妙に進みが遅かった。クラクションまで聞こえてくる。 何か事故でもあったのかと思いながら歩いていくと、原因はすぐに分かった。 大通り沿いのガソリンスタンドだった。 給油を待つ車が道路へはみ出し、その列が交差点を越えている。ざっと見ただけでも五十台以上は並んでいた。「朝から、こんなに?」 冬真は歩道で足を止めた。 スタンドの入口には店員が二人立ち、車を誘導している。電光掲示板には大きく「レギュラー 在庫あり」と表示され、その下に臨時の貼り紙が出ていた。『混雑のため、一台につき給油上限三十リットルとさせていただきます』 車列の中では運転席の窓を開け、苛立った顔で前を見ている人が多い。 冬真の横を、自転車に乗った老人が通り過ぎながら呆れたように言った。「みんな昨日のニュース見て来たんだろうなあ」 誰に話しかけたのか分からなかったが、冬真は思わず返した。「燃料不足になるって話ですか」「不足するとは言ってなかったけどね。値上がりするかもしれないって言われたら、みんな満タンにしたくなるだろう」「そうですね」「俺なんか車ほとんど乗らないから関係ないけどさ。昔のオイルショックみたいにならなきゃいいんだけどねえ」 老人はそう言って、自転車で去っていった。 冬真はしばらく列を眺めた。 昨日の夜、テレビではガソリンや灯油の卸売価格上昇を報じていた。 供給が止まるとは言っていなかった。 にもかかわらず、人は並ぶ。 米の時と同